浜田省吾1980年発表のアルバム「HOME BOUND」収録曲です。
10代の少年が初めて家出をした、その一夜の物語を歌ったものですが、そこで少年が経験したものは、決して夢見ていたような楽しいものではありませんでした。
浜田省吾がまだ10代の少年達の代弁者的な立ち位置にあった時代の名曲です。
ボストンバッグにラジオと着替え押し込み
退学届けと手紙ポケットに入れて
今夜お前は世界を相手に戦い始めるティーンエイジブルー
寒さしのごうと映画館のドアを開け
ジェームス・ディーンの横顔見てももう以前のように熱くなれない
ロビーで煙草ふかすティーンエイジブルー
息が詰まるほど愛に満ちた家 泳ぎ出さなきゃ溺れそう
少年が家を出た理由は「息が詰まるほど愛に満ちた家」でした。
何か具体的な不平や不満を抱いているというよりは、「漠然とした満たされない何か」に動かされるようにして、主人公は家を出たのではないでしょうか。
しかし、その家出は決して充実感に満ちた華々しいものではありません。
大好きなジェームス・ディーンの映画を観ていても、「もう以前のように熱くなれない」、どこか上の空で時間だけが過ぎていきます。
あるいは、彼はジェームス・ディーンの映画に触発されて、今回の家出を計画したのかもしれません。
「今夜、お前は世界を相手に戦い始める」のフレーズが、実に主人公の強い決意を表していますが、そうした決意と現実とのコントラストが、この曲の大きなテーマとなっていきます。
個人的な感想ですが、この「今夜、お前は世界を相手に戦い始める」の表現方法は、どこかARBの石橋凌を連想させる表現です。
酔いつぶれた町 深夜喫茶午前4時
誰かにさよなら言おうと電話の前
だけど誰ひとり思い浮かばない
寒いほど一人ティーンエイジブルー
モヤモしたものを抱えたまま、公衆電話の前に立ち、誰かと話をしたいと思っている。
「さよなら言おうと」はただの言い訳で、結局のところ、大きな孤独に耐えきれなくなっているというのが、主人公の本音だったことでしょう。
ところが、その孤独を受け止めてくれそうな相手が、誰も思い浮かばない。
現在のように、誰もが携帯電話を持ち、いつでも誰かと繋がっていることを求め合う時代ではありませんでしたから、このような状況になって、初めて自分自身の本当の孤独と向き合うといったことが起こりえたのかもしれません。
逃げ出したところで やがて同じこと
誰も手を貸してはくれないよ
明けてゆく空を見上げて舗道歩けば
口びる噛んでも涙止まらない
どこへ行こうか もう帰ろうか
でもそれじゃまた元のティーンエイジブルー
一夜が明けようとしたところで、少年は気がつきます。
変わらなければいけなかったのは、彼の回りの環境ではなく、彼自身であったということに。
「逃げ出したところで、やがて同じこと」が、この作品のテーマでしょう。
居場所を変えたって、誰も手を貸してくれるわけじゃない、自分自身が立ち上がるしかない。
しかし、そうした現実に気がついたからといって、彼自身がすぐに変わることができるわけでもない。
それは多くの少年達が超えなければならない壁のようなものです。
「どこへ行こうか、もう帰ろうか、でもそれじゃまた元のティーンエイジブルー」というフレーズは、帰りたいけれど帰れないという少年の日の葛藤を端的に表現しています。
世界を相手に戦い始めようとしていた主人公が、現実に戦っているのは自分自身だったという図式が、少年時代の「どうしようもない苛立ち」というやつの象徴だったのかもしれませんね。
あるいは、こうした失意のストーリーそのものが、ジェームス・ディーンへのオマージュとして仕立て上げられているといった解釈も成り立つのかもしれません。
それは、「傷つきやすい少年」の代名詞でもあった浜田省吾そのものであったとも言えるのです。
サウンド的には、このアルバム「Home Bound」から浜省が積極的に採り入れだした、原点としてのロックンロール・サウンドで、「あばずれセブンティーン」とともに、当時のライブ終盤を一気に盛り上げる重要な曲でした。
作品数が膨大な数となった現在から見ると、まるで宝石の原石みたいにピュアで美しいロックンロールのようにも思えます。
当時のステージで、浜田省吾はこんな話をしています。
次は十代の人たちのために歌を作ったんで、聴いてもらおうと思うんだけど。
(中略)
今も、十代の人たちって、ほとんど家が嫌いなんだよね。
ある意味では、すごい甘えてる、だけどとってもイカしてる。
そんな精神の反逆児たちのために2曲作ったんで、ぜひ聴いてください。
誰もが失ってしまう少年時代のやりきれない思いが、ロックンロールという表現の中に記憶されて、そして、今もまだ生き続けている。
そういうことです。