一定期間更新がないため広告を表示しています
浜田省吾2001年発売のアルバム「SAVE OUR SHIP」収録曲「日はまた昇る」です。
そもそもは、1998年発売のシングル「詩人の鐘」との両面A面シングルとして発表されたものでした。
壮大に人生を歌った曲として、現在も浜田省吾ナンバーの中では重要な意味を持つ作品として、ステージでも終盤に歌われることの多い人気曲です。
テーマは、ずばり「人生」。
海鳴りの聞こえる丘で青空を見上げて想う
この旅の途上で愛した人の懐かしい面影を今日まで何度も厄介な事に見舞われて来たけれど
今もこうして暮らしてる
これからも生きてゆけるさ夕日が空を染めてゆく
明日の朝も日はまた昇る
おれがここにいるかぎり
おれがそこにいようといまいと
おそらくは、ある程度の人生経験を積んできた人間が、海鳴りの聞こえる丘で青空を見上げながら、一人人生を振り返っているシーンから曲は始まります。
まるで映画の冒頭のワンシーンのような滑り出し。
彼の人生が決して平坦なものではなかったことは、「今日まで何度も厄介な事に見舞われてきた」という台詞から読み取ることができます。
それでも、彼は「今もこうして暮らしてる」から「これからも生きてゆける」と考えます。
これは、深い人生経験の末に悟った、彼なりの人生哲学に他なりません。
曲名に結びつく「明日の朝も日はまた昇る」というフレーズは、「おれがいようといまいと」へと展開していきます。
この作品のテーマの一端が、既にここで現れていると言って良いかもしれません。
自分の存在に関係なく、地球は明日も回転し続けるだろうと考える発想は、アーネスト・ヘミングウェイの「日はまた昇る」との強い繋がりを感じさせます。
作品名「日はまた昇る」は、もちろん、ヘミングウェイの代表作である「日はまた昇る(原題:The Sun Also Rises)」(1926年)にインスパイアされたものに違いないでしょう。
一般的に、「日はまた昇る」というフレーズは、明日への希望を感じさせるものとして使われることが多いものですが、ヘミングウェイは、ルーチンに延々と繰り返される夜明けを、決して希望とばかりはとらえていませんでした。
「失われた世代」が共通的に感じていた虚無的な閉塞感が、「日はまた昇る」という言葉の中には示唆されています。
浜田省吾もまた、ヘミングウェイたち「失われた世代」の生きざまに、強い影響を受けていたに違いありません。
だからこそ、「おれがそこにいようといまいと」という、ある意味投げやりとも感じられる表現が、「日はまた昇る」というフレーズとともに並べられているのです。
激しい河の流れを静かに見つめて
闇の向こうに何があるのか
誰ひとりわからない
わからぬことをわずらうよりも
今日この時を生きていたい
河を渡り 谷間をぬって 頂きを越えて
長い旅路の色んな場所で数えきれぬ人に出会う
誰もが皆 自分の人生と闘っている
「激しい河」も「闇」も「谷間」も「頂き」もすべては「人生」でしょう。
人生という「長い旅路」で出会った数え切れぬほど多くの人たちのことを思い出し、彼らがみな「自分の人生と闘っている」だろうことを思い浮かべます。
なぜなら、彼こそが、「今まさしく自分の人生と闘っている」瞬間だからに他なりません。
そして、闘っているのは自分だけではない、誰もがみな自分の人生と闘っているのだと考えることで、自分自身を奮い立たせているのです。
日は昇り、日は沈み、日はまた昇る。
人間の生きざまなど、風を追うように虚しいものだ。
すべては、聖書の中に描かれた哲学ですが、ヘミングウェイも浜田省吾も、自分の人生の中からその虚無感の本質みたいなものを感じとり、自分の言葉として「日はまた昇る」と呟いているのです。
荒野にひとり君は立ってる
行く道は幾つもある
だけど たどりつくべき場所は きっとただひとつだけ
どの道を歩いて行こうと
君は君の その人生を受け入れて楽しむ他ない
最後には笑えるように
曲の終わりまで、浜田省吾はひとつの人生哲学的虚無感を貫こうとしています。
「たどりつくべき場所は きっとただひとつだけ」や「その人生を受け入れて楽しむ他ない」といったフレーズは、運命論者的発想によるもので、自分自身で人生を切り開くのではなく、「何もかもはすべて定められているのだ」といった一種あきらめにも似た脱力感が、彼の人生への悟りを感じさせているのです。
そして、そうした宿命論的人生観に対するただひとつの救いが、最後の「最後には笑えるように」の一言なのだと思われます。
どんな人生であっても、その人生を精いっぱい生きることによって受け入れて、自分なりの充足感を得ることができれば、それで良いのだと。
こうした考え方は、若い世代の人たちには理解しにくいものかもしれません。
人生には様々な生き方があり、その選択を自分自身がしていくのだと考えているのに、どの道を選んでもゴールはみな同じだと言われたら、頑張り甲斐のない人生になってしまいますから。
「詩人の鐘」でも同様ですが、ひとつの世紀末思想がこの作品の中には盛り込まれているような気がします。
我々に必要なのは、その宿命的人生に対する虚脱感の中から、どのようにして生き抜くかということにあるような気がしてなりません。
最後には笑えるように。
ワイパーも歪む程の雨
青ざめた光の闇に迷い込んで
スピンした車体が 中央分離帯のガードレールかすめてゆく
まるでスローモーション 動かない心
こんな夜には逢いたい 君に抱かれ眠りたい
どんな未来も受け入れる 君がそこにいれば
モノクロームの虹のような夢に傷つき 壊れた心を見てきた
再生と死を繰り返し転がるよ 終りが辿り着くところへ
解放への幻想 胸に抱いて
もう風の声も 世界が軋む音も
刹那の河深くに沈めて 今日を生きる
最後の煙草に火をつけ状況設定はかなり不明確。
何もかもに理由もなく噛みついてる
午前3時のWild Boy 行く場所のない
自由さ 自由 自由さ 行き止まりの
闇に紛れて 熱にうなされて
今夜も 闇に紛れて 真夏の路上で 嵐を待ってる