CALENDAR
S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< October 2017 >>
ARCHIVES
CATEGORIES
浜田省吾を聴いてみたい方に
RECOMMEND
RECOMMEND
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | - |
日はまた昇る

 浜田省吾2001年発売のアルバム「SAVE OUR SHIP」収録曲「日はまた昇る」です。
そもそもは、1998年発売のシングル「詩人の鐘」との両面A面シングルとして発表されたものでした。

壮大に人生を歌った曲として、現在も浜田省吾ナンバーの中では重要な意味を持つ作品として、ステージでも終盤に歌われることの多い人気曲です。
テーマは、ずばり「人生」。

海鳴りの聞こえる丘で青空を見上げて想う
この旅の途上で愛した人の懐かしい面影を

今日まで何度も厄介な事に見舞われて来たけれど
今もこうして暮らしてる
これからも生きてゆけるさ

夕日が空を染めてゆく
明日の朝も日はまた昇る
おれがここにいるかぎり
おれがそこにいようといまいと

おそらくは、ある程度の人生経験を積んできた人間が、海鳴りの聞こえる丘で青空を見上げながら、一人人生を振り返っているシーンから曲は始まります。
まるで映画の冒頭のワンシーンのような滑り出し。

彼の人生が決して平坦なものではなかったことは、「今日まで何度も厄介な事に見舞われてきた」という台詞から読み取ることができます。
それでも、彼は「今もこうして暮らしてる」から「これからも生きてゆける」と考えます。
これは、深い人生経験の末に悟った、彼なりの人生哲学に他なりません。

曲名に結びつく「明日の朝も日はまた昇る」というフレーズは、「おれがいようといまいと」へと展開していきます。
この作品のテーマの一端が、既にここで現れていると言って良いかもしれません。
自分の存在に関係なく、地球は明日も回転し続けるだろうと考える発想は、アーネスト・ヘミングウェイの「日はまた昇る」との強い繋がりを感じさせます。

作品名「日はまた昇る」は、もちろん、ヘミングウェイの代表作である「日はまた昇る(原題:The Sun Also Rises)」(1926年)にインスパイアされたものに違いないでしょう。
一般的に、「日はまた昇る」というフレーズは、明日への希望を感じさせるものとして使われることが多いものですが、ヘミングウェイは、ルーチンに延々と繰り返される夜明けを、決して希望とばかりはとらえていませんでした。
「失われた世代」が共通的に感じていた虚無的な閉塞感が、「日はまた昇る」という言葉の中には示唆されています。

浜田省吾もまた、ヘミングウェイたち「失われた世代」の生きざまに、強い影響を受けていたに違いありません。
だからこそ、「おれがそこにいようといまいと」という、ある意味投げやりとも感じられる表現が、「日はまた昇る」というフレーズとともに並べられているのです。

激しい河の流れを静かに見つめて
闇の向こうに何があるのか
誰ひとりわからない
わからぬことをわずらうよりも
今日この時を生きていたい

河を渡り 谷間をぬって 頂きを越えて
長い旅路の色んな場所で数えきれぬ人に出会う
誰もが皆 自分の人生と闘っている

「激しい河」も「闇」も「谷間」も「頂き」もすべては「人生」でしょう。
人生という「長い旅路」で出会った数え切れぬほど多くの人たちのことを思い出し、彼らがみな「自分の人生と闘っている」だろうことを思い浮かべます。
なぜなら、彼こそが、「今まさしく自分の人生と闘っている」瞬間だからに他なりません。
そして、闘っているのは自分だけではない、誰もがみな自分の人生と闘っているのだと考えることで、自分自身を奮い立たせているのです。

日は昇り、日は沈み、日はまた昇る。
人間の生きざまなど、風を追うように虚しいものだ。

すべては、聖書の中に描かれた哲学ですが、ヘミングウェイも浜田省吾も、自分の人生の中からその虚無感の本質みたいなものを感じとり、自分の言葉として「日はまた昇る」と呟いているのです。

荒野にひとり君は立ってる
行く道は幾つもある
だけど たどりつくべき場所は きっとただひとつだけ

どの道を歩いて行こうと
君は君の その人生を受け入れて楽しむ他ない
最後には笑えるように

曲の終わりまで、浜田省吾はひとつの人生哲学的虚無感を貫こうとしています。
「たどりつくべき場所は きっとただひとつだけ」や「その人生を受け入れて楽しむ他ない」といったフレーズは、運命論者的発想によるもので、自分自身で人生を切り開くのではなく、「何もかもはすべて定められているのだ」といった一種あきらめにも似た脱力感が、彼の人生への悟りを感じさせているのです。

そして、そうした宿命論的人生観に対するただひとつの救いが、最後の「最後には笑えるように」の一言なのだと思われます。
どんな人生であっても、その人生を精いっぱい生きることによって受け入れて、自分なりの充足感を得ることができれば、それで良いのだと。

こうした考え方は、若い世代の人たちには理解しにくいものかもしれません。
人生には様々な生き方があり、その選択を自分自身がしていくのだと考えているのに、どの道を選んでもゴールはみな同じだと言われたら、頑張り甲斐のない人生になってしまいますから。

「詩人の鐘」でも同様ですが、ひとつの世紀末思想がこの作品の中には盛り込まれているような気がします。
我々に必要なのは、その宿命的人生に対する虚脱感の中から、どのようにして生き抜くかということにあるような気がしてなりません。

最後には笑えるように。

| 全曲レビュー(24-SAVE OUR SHIP) | 16:51 | - | - |
モノクロームの虹
浜田省吾2001年発表のアルバム「SAVE OUR SHIP」収録曲です。
というよりも、1998年に発表されたシングル曲が、2001年になってアルバム収録されたと言った方が正確かもしれません。
1990年代後半に発表されたシングル曲としては、多分一番好きな曲だと思います。
というのも、1990年代後期というのは、1980年代から1990年代にかけての成功を得た浜田省吾が、深い泥沼にはまったかのように迷走していた時期であり、個人的にも自分の波長と浜省の波長がなかなか一致しなかった時期でもあるのです。
それだけに、この「モノクロームの虹」を聴いたときには、懐かしい浜田省吾に久しぶりに逢えたなーと、しみじみと感じたものでした。
と言って、なにかメッセージが伝わってくるという曲でもなくて、とにかくマイナーコードのハードなビートに、浜田省吾らしさを感じていたに過ぎないのですが、「東京」「愛の世代の前に」「オン・ザ・ロード」「マイ・ホーム・タウン」などといった一連の作品と同じ匂いがしていたことには間違いありません。
特に、イントロのギターフレーズは近年の作品の中でも秀逸なアレンジだったと思います。
ワイパーも歪む程の雨
青ざめた光の闇に迷い込んで
スピンした車体が 中央分離帯のガードレールかすめてゆく
まるでスローモーション 動かない心
こんな夜には逢いたい 君に抱かれ眠りたい
どんな未来も受け入れる 君がそこにいれば

一般的に、メッセージ・ソングを歌うとされている浜省の作品から、うまくメッセージを読みとれないというのは、かなり珍しいことです。
(僕と浜省の波長が一致しなかっただけなのかもしれませんが)
メロディやフレーズはガンガン頭の中に飛び込んでくるのに、いったい何を歌いたいのかが、なかなかうまく伝わってきませんでした。
もちろん、こうして歌詞カードを見て、歌詞を読めば、作品の意図というのは大体つかめるものです。
けれども、ロック・ミュージックである以上、音楽の中から何かが伝わってこなければ、歌詞カードの中のメッセージは、あまり意味のあるものではないと思えるのです。
(実際、多くの浜省の作品からは、音楽を通してメッセージが伝わってきた)
そもそも、僕はほとんど歌詞カードを見ないタイプのリスナーなので、それだけに音楽から伝わってくる感覚みたいなものを重視してしまうのかもしれません。

歌のテーマは、「孤独」です。
全体的にラブ・ソングとして作られているのですが、そのラブ・ソングの根底には「孤独からの逃避」があると考えるべきでしょう。
前半の、雨の中でスピンして衝突事故を起こしそうになるという描写は、主人公の心理描写であり、パニックに近い戸惑いや焦りが伝わってきます。
「こんな夜」というのは、雨の夜とか交通事故を起こしそうになる夜という意味ではなく、もちろん、孤独感に責め立てられるような寂しい夜という意味でしょう。
「君に逢いたい」は、単純に愛情を示すだけではなく、強い逃避感情であると推測されます。
それは、次の「君に抱かれ眠りたい」というフレーズからも分かりますが、「君を抱きたい」ではなく、「君に抱かれたい」というのが、主人公の逼迫した感情を表しているものと思われます。
「どんな未来も受け入れる」は、かなり意味深な表現で、解釈の困難さを感じさせます。
「君がそばにいる」ことによって、いったいどんな未来が予測されるのか?
主人公の「覚悟」は、二人の関係にかなり危険な匂いを感じさせる効果を与えていると言えるでしょう。
モノクロームの虹のような夢に傷つき 壊れた心を見てきた
再生と死を繰り返し転がるよ 終りが辿り着くところへ
解放への幻想 胸に抱いて

もう風の声も 世界が軋む音も
刹那の河深くに沈めて 今日を生きる

2番以降の歌詞は、ますます観念的で哲学的な表現が多用され、いよいよ解釈を困難にしていきます(笑)
「モノクロームのような虹」とは何か?
文章中の別の言葉で表現しなさい。
そんな問題が出てきそうですね。
答えは「幻想」です。
もともと、浜田省吾は若い頃から「夢」にこだわりを持って歌ってきたミュージシャンでしたが、1990年代の中期以降、「夢」に対して懐疑的な姿勢が目立つようになります。
それは、作者自身の加齢による影響ということも否定できないかもしれません。
かつての「夢」が「幻想」となり、それは「モノクロームのような虹」だと表現される。
夢と挫折を繰り返すような生き方は、まるで「再生と死を繰り返しながら転がっているみたいだ」と、作者は感じたのでしょう。
そして、その先には「終りが辿り着くところ」が待っているのだと、作者は客観視しています。
それは、1番の中で、パニック状態にあった人物と同一人物の思考とは思えないほど冷静であり、あるいは焦りが飽和して虚脱状態の中にいるかのような静けささえ感じさせます。
「風の声」と「世界が軋む音」とは、何を意味するものでしょうか。
それは、虚脱状態の中にあった主人公が感じた、「すべて」なのでしょう。
あるいは、我々はこの歌をもっと政治的・社会的にとらえて解釈することもできるかもしれません。
これは、個人としての歌なのではなく、国家としての歌なのだと。
けれども、僕はやはりこの歌を、個人としての歌として考えたいと思います。
そこに、社会的な暗喩(あるいはダブル・ミーニング)が秘められていたとしても、この歌が持つ「孤独」への恐怖感は決して失われるものではないと思えるからです。
あたかも悟りを得たかのように、主人公は「今日を生きる」ことを決意します。
それは、自動車をぶっ飛ばしていた導入部分から、冷静に「モノクロームの虹」を見つめる部分を通して、最終部分の「今日を生きる」へと繋がっていく、一連のドラマのように構成されているのです。

全体を通して考えてみると、やはりこの作品は音楽的にも、そして文学的にも優れたセンスを感じさせる素晴らしい作品のひとつだと思われます。
ただし、表現力が困難になっている分だけ、ロック・ミュージックとしては伝えられるべきメッセージが少し薄まってしまったような気がします。
メッセージを全面に押し出すことができるフォーク・ミュージックとの違いが、そこにはあるのかもしれません。

でも、浜省がこういう作品を「まだ」作れるんだと思ったときには、本当に嬉しかったですねー。
また、こういう作品に出会うことができたらいいなー☆

| 全曲レビュー(24-SAVE OUR SHIP) | 22:54 | - | trackbacks(5) |
真夏の路上
浜田省吾2001年発表のアルバム「SAVE OUR SHIP」収録曲です。
いかにも浜省らしい曲名ですよね。
テーマは「真夏の苛立ち」。
理由のわからない苛立ちに焦る男や女の物語という感じですね。
ただし、明確なストーリーが提示されているわけではなく、印象的なフレーズで真夏の情感を醸し出しています。

最後の煙草に火をつけ
何もかもに理由もなく噛みついてる
午前3時のWild Boy 行く場所のない
自由さ 自由 自由さ 行き止まりの
闇に紛れて 熱にうなされて
今夜も 闇に紛れて 真夏の路上で 嵐を待ってる
状況設定はかなり不明確。
「何もかもに理由もなく噛みついてる」などはいかにも浜省らしいフレーズですが、それより先がほとんど見えません。
完全な自由なんだけれど、それは行く場所のない行き止まりの自由。
「嵐を待ってる」は、もちろん自分の中や自分の周囲に、なにか劇的な変化が起こることを待ちわびている主人公の気持ちを示唆しています。
大切なのは、この主人公は自分で何かアクションを起こすわけでもなく、ただ嵐を待っているだけの状態だということです。
かつて「この街を出る」という表現で行動を示し続けた男の子が成長して、理由のない苛立ちの中で行き場もなく、ただ嵐を待っているだけなのだとしたなら、それはちょっと寂しいような気がします。
もしかすると、浜田省吾はそういう現実を我々の前に突きつけていたのかもしれません。

サウンド的にも浜省らしいメジャーコードのロックンロール。
このアルバムでは、テーマやメッセージ的よりもサウンド面でのこだわりを前面に押し出しているような気もします。

僕らが浜田省吾の歌に夢見ていたものは、ひたむきな前向きさだとしたなら、このロックンロールから得ることのできるものは、決して多くはないかもしれませんね。
| 全曲レビュー(24-SAVE OUR SHIP) | 19:55 | - | trackbacks(0) |
| 1/1PAGES |