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浜田省吾を聴いてみたい方に
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ある晴れた夏の日の午後
浜田省吾2005年発売のアルバム「My First Love」収録曲です。
浜田省吾の場合、アルバム構成上もっとも重要と思われる曲を、アルバムの一番最後に持ってくるというパターンが一般的で、その考えによると、今回のアルバムの中でこの曲の占める位置は大きいものと思われます。
重要曲の後に1曲余韻を残すような曲を配するパターンもあるのですが、今回は、アルバムタイトル曲「初恋」の後に、「君と歩いた道」「ある晴れた夏の日の午後」と続くので、そういうおまけ的な選曲とはちょっと考えられないでしょう。
ただし、アルバム最後の曲としては意外なくらいに地味な曲です。
なぜ、この曲がアルバムの最後の曲として作者は選んだのでしょうか。
今日はこのことについて、ゆっくり考えてみたいと思います。

まず、浜田省吾本人の解説によると、この歌はラブソングで、「『君と歩いた道』と光と影で対になっている曲。カンカン照りの日に真っ黒いスーツを着た僕と同じくらいかちょっと上の男の人があぜ道を歩いているってイメージ。」とのこと。

http://storm.fmfuji.co.jp/guest05/guest0716.html

この本人解説を元にして、歌詞の内容を考えてみたいと思います。

風が青い稲の穂を撫で抜けていく畦道
静寂 蝉の声 自分の付く息 足音
真上から照りつける八月の太陽
鋭い歯で切り取った影を踏みながら
額から背中から流れ落ちる汗
視線の向こうは陽炎
歌詞の一番は日本の真夏をイメージさせる描写のみで構成されています。
「青い稲の穂」は日本の8月を象徴する言葉です。
「静寂」と「蝉の声」は一見矛盾する言葉ですが、蝉のわんわんと鳴く声が静寂を生み出すという逆効果は、松尾芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」と同じ手法ですね。
また、ここでは説明文ではなく、言葉を羅列することで一層の静けさを強調することに成功していますが、こうした詞の書き方はもともと浜省が佐野元春の中に認めていた表現方法のひとつ。
日本の8月の炎天下の午後、蝉の声だけに包まれた水田地帯を歩く主人公の姿がきちんと描写されています。
もっとも、この中には伝えられるべきメッセージは、まだ登場していません。
ただ、サウンド的には重苦しいスローテンポの音楽が鳴っていることから、決してこれが爽やかなラブソングには発展していかないことが何となく感じ取れるだけです。
歌詞のすべてが「体言止め」という手法で構成されているのも、「静寂」をより強調するための文学的なテクニックと思われます。

写真の中の君 無邪気に笑ってる この浜辺で
この時 君 二十歳過ぎで あどけなさの中に強い心 秘めている
生命の輝き ほとばしる瞬間をとらえたのは このオレ
名付けようも無い感情で
ここでは、1枚の写真の風景が描写されています。
浜辺で無邪気に笑っている「誰か」の写真。
二十歳過ぎの「誰か」が浜辺で笑っている写真。
主人公はこの写真の「誰か」の笑顔の中に「強い心」を見つけ出しています。
この写真が「誰」なのかが明記されていないということが、逆にこの写真の被写体がこの歌の中で非常に重要な意味を持つような憶測ができます。
僕は当初、この写真の被写体はきっと浜田省吾のお父さんなんだろうと推測していました。
この歌は家族の繋がりを歌ったものなんだろうと。
けれども、そうすると浜田省吾本人の語った「君と歩いた道」との対比が説明できないので、そうすると被写体はやはり主人公の若い頃の恋人ということになります。
ここで主人公が若い頃の恋人の写真に感じた「名付けようもない感情」とは、いったいどんな感情だったのでしょうか。
表現者が自分の気持ちを表現するために「名付けようもない」と表現することはとても異例であり、卑怯な手法です。
この手法によれば、すべての表現が必要なくなってしまう危険性を孕んでいるからです。
もちろん、作者はそんなことを先刻承知のうえで、それでもなおこの「名付けようもない感情」をどうしても使わなければいけないという必要性に迫られたのでしょう。
そこに、この歌の持つ作者の複雑な思いが表現されているような気がします。
若き日の恋人に感じた「生命の輝き ほとばしる瞬間」。
その写真の主人公は既に遠く離れた存在となってしまっています。

つむじ風 湧き立ち
手招くように 導くように 明日へと

いつかまた逢える日が来た時
君に恥じない日々 送ることを誓おう 青空に
愛された感触が素肌と心に 今も消えずにあるから
「愛された感触が素肌と心に今も消えずにある」のは、作者が恋人への感情を今も抱き続けていることを示唆しています。
もちろん「いつかまた逢える日」はきっとやっては来ないでしょう。
けれども、作者の決意は「いつかまた逢える日」を想定して「君に恥じない日々を送ることを誓おう」と決意表明しています。
湧き立つ「つむじ風」はかつての恋人であり、「手招くように 導くように」自分の現在を見守ってくれていることを、作者は感じています。
「青空」はおそらく作者にとって恋人と同じような存在、あるいは恋人を示唆する存在として登場しているのでしないでしょうか。

ただ、最初に書いたように、僕はこの歌を父親に対する歌として読み取っていましたから、今でもその印象は抜けていません。
50代の男性が昔の恋人を思い出しながら、決意表明するというのは自然な行為なのでしょうか。
今でも昔の恋人の存在を身近に感じることはあるのでしょうか。
僕はまだ若いし、その辺りの感情を素直に読み解くことはできません。
少なくとも、昔の恋人のことを思い出すことはほとんどないし、まして昔の恋人に何かを誓うことなんて考えられませんから。
可能性としては、若い頃に恋人と死別していたとしたなら。
若い頃のままの恋人のイメージを引きずり続けてきたとしたなら、恋人に何かを誓うという行為も理解できるような気がします。

| 全曲レビュー(26-My First Love) | 20:05 | - | trackbacks(0) |
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