海鳴りの聞こえる丘で青空を見上げて想う
この旅の途上で愛した人の懐かしい面影を今日まで何度も厄介な事に見舞われて来たけれど
今もこうして暮らしてる
これからも生きてゆけるさ夕日が空を染めてゆく
明日の朝も日はまた昇る
おれがここにいるかぎり
おれがそこにいようといまいと
おそらくは、ある程度の人生経験を積んできた人間が、海鳴りの聞こえる丘で青空を見上げながら、一人人生を振り返っているシーンから曲は始まります。
まるで映画の冒頭のワンシーンのような滑り出し。
彼の人生が決して平坦なものではなかったことは、「今日まで何度も厄介な事に見舞われてきた」という台詞から読み取ることができます。
それでも、彼は「今もこうして暮らしてる」から「これからも生きてゆける」と考えます。
これは、深い人生経験の末に悟った、彼なりの人生哲学に他なりません。
曲名に結びつく「明日の朝も日はまた昇る」というフレーズは、「おれがいようといまいと」へと展開していきます。
この作品のテーマの一端が、既にここで現れていると言って良いかもしれません。
自分の存在に関係なく、地球は明日も回転し続けるだろうと考える発想は、アーネスト・ヘミングウェイの「日はまた昇る」との強い繋がりを感じさせます。
作品名「日はまた昇る」は、もちろん、ヘミングウェイの代表作である「日はまた昇る(原題:The Sun Also Rises)」(1926年)にインスパイアされたものに違いないでしょう。
一般的に、「日はまた昇る」というフレーズは、明日への希望を感じさせるものとして使われることが多いものですが、ヘミングウェイは、ルーチンに延々と繰り返される夜明けを、決して希望とばかりはとらえていませんでした。
「失われた世代」が共通的に感じていた虚無的な閉塞感が、「日はまた昇る」という言葉の中には示唆されています。
浜田省吾もまた、ヘミングウェイたち「失われた世代」の生きざまに、強い影響を受けていたに違いありません。
だからこそ、「おれがそこにいようといまいと」という、ある意味投げやりとも感じられる表現が、「日はまた昇る」というフレーズとともに並べられているのです。
激しい河の流れを静かに見つめて
闇の向こうに何があるのか
誰ひとりわからない
わからぬことをわずらうよりも
今日この時を生きていたい
河を渡り 谷間をぬって 頂きを越えて
長い旅路の色んな場所で数えきれぬ人に出会う
誰もが皆 自分の人生と闘っている
「激しい河」も「闇」も「谷間」も「頂き」もすべては「人生」でしょう。
人生という「長い旅路」で出会った数え切れぬほど多くの人たちのことを思い出し、彼らがみな「自分の人生と闘っている」だろうことを思い浮かべます。
なぜなら、彼こそが、「今まさしく自分の人生と闘っている」瞬間だからに他なりません。
そして、闘っているのは自分だけではない、誰もがみな自分の人生と闘っているのだと考えることで、自分自身を奮い立たせているのです。
日は昇り、日は沈み、日はまた昇る。
人間の生きざまなど、風を追うように虚しいものだ。
すべては、聖書の中に描かれた哲学ですが、ヘミングウェイも浜田省吾も、自分の人生の中からその虚無感の本質みたいなものを感じとり、自分の言葉として「日はまた昇る」と呟いているのです。
荒野にひとり君は立ってる
行く道は幾つもある
だけど たどりつくべき場所は きっとただひとつだけ
どの道を歩いて行こうと
君は君の その人生を受け入れて楽しむ他ない
最後には笑えるように
曲の終わりまで、浜田省吾はひとつの人生哲学的虚無感を貫こうとしています。
「たどりつくべき場所は きっとただひとつだけ」や「その人生を受け入れて楽しむ他ない」といったフレーズは、運命論者的発想によるもので、自分自身で人生を切り開くのではなく、「何もかもはすべて定められているのだ」といった一種あきらめにも似た脱力感が、彼の人生への悟りを感じさせているのです。
そして、そうした宿命論的人生観に対するただひとつの救いが、最後の「最後には笑えるように」の一言なのだと思われます。
どんな人生であっても、その人生を精いっぱい生きることによって受け入れて、自分なりの充足感を得ることができれば、それで良いのだと。
こうした考え方は、若い世代の人たちには理解しにくいものかもしれません。
人生には様々な生き方があり、その選択を自分自身がしていくのだと考えているのに、どの道を選んでもゴールはみな同じだと言われたら、頑張り甲斐のない人生になってしまいますから。
「詩人の鐘」でも同様ですが、ひとつの世紀末思想がこの作品の中には盛り込まれているような気がします。
我々に必要なのは、その宿命的人生に対する虚脱感の中から、どのようにして生き抜くかということにあるような気がしてなりません。
最後には笑えるように。
どれほど泣いたなら あなたをあきらめられる
どれだけ遠くへ行けば忘れられる
他の誰かを好きになろうとしたけど
いつも あなたとのまぶしいときがよみがえるだけ
手紙も思い出の指輪も捨てた今でも
受話器を握りしめて 夜がまた明けてゆく
一言その声を聞けたら眠れるはずなのに
あの人いつもやさしく
あなたを忘れることができるまで待ち続けると言ってくれるけど
冷たいあなたの背にひかれ 顔うずめ このまま
冷たいあなたの背にひかれ 顔うずめ このまま
床の軋む狭い部屋で 体寄せて眠ったね
いつかお前こんなとこから連れ出すと誓った 闇の中で
固い喉にコーヒーだけ流し込んで走ったね
駅のホーム 日射し浴びて お前は誰より素敵だった
疲れ果てて すれ違って 少しずつ欠けていく優しさ
でも愛まで壊れてくとは思いもせずに
焼跡の灰の中から強く高く飛び立った
落ちてゆく夕日めがけ
西の空を見上げて飢えを枕に 敗北を発条(バネ)に
風向きを道しるべに駆け抜けて来た
過ぎ去った昔の事と 子供達に何ひとつ伝えずに
この国 何を学んできたのだろう
飽和した都会 集う家は遠く
ブラウン管の前でしか笑わぬ子供
老いてゆく 孤独の影に脅え 明日に目を伏せて
踊るだけ Beatに委ね バリーライトの海で
何を支えに 何を誇りに走り続けて行こう
You jusr believe in money.
焼跡の灰の中から 強く高く飛び立った1945年
打ちのめされ 砕けた心のまま
1945年 焼跡から遠く飛び立った 今
ボストンバッグにラジオと着替え押し込み
退学届けと手紙ポケットに入れて
今夜お前は世界を相手に戦い始めるティーンエイジブルー
寒さしのごうと映画館のドアを開け
ジェームス・ディーンの横顔見てももう以前のように熱くなれない
ロビーで煙草ふかすティーンエイジブルー
息が詰まるほど愛に満ちた家 泳ぎ出さなきゃ溺れそう
酔いつぶれた町 深夜喫茶午前4時
誰かにさよなら言おうと電話の前
だけど誰ひとり思い浮かばない
寒いほど一人ティーンエイジブルー
逃げ出したところで やがて同じこと
誰も手を貸してはくれないよ
明けてゆく空を見上げて舗道歩けば
口びる噛んでも涙止まらない
どこへ行こうか もう帰ろうか
でもそれじゃまた元のティーンエイジブルー
次は十代の人たちのために歌を作ったんで、聴いてもらおうと思うんだけど。
(中略)
今も、十代の人たちって、ほとんど家が嫌いなんだよね。
ある意味では、すごい甘えてる、だけどとってもイカしてる。
そんな精神の反逆児たちのために2曲作ったんで、ぜひ聴いてください。
ひとりぼっちで窓に腰かけ ギター弾いてた
子どもの頃 寂しさだけが友達だったよ
でも今夜はあの娘とふたり 海までドライブ
DJお願い 聴かせておくれ
いかしたロックンロール 素敵なリズム&ブルース
走ることの他に この街 何ができる
踊ることの他に 今夜 何ができる
Woo Baby woo Sha la la la one more kiss.
Woo Baby woo one more chance.
We're goin' down,down by the mainstreet
栄光の時を待ちわびて
Goin' down 暗闇の中を 今夜二人走るだけ
「MONEY」や「DADDY'S TOWN」同様に、街を舞台に生きる少年としての立場からのメッセージが、ただ叩きつけられています。
ストーリー性もドラマ性も何もない、ただのメッセージ。
これは、浜田省吾作品としては、かなり稀な作品構成なのではないでしょうか。
短い歌詞の約半分を英語フレーズが占めていることも特徴で、その英語フレーズも大部分がハミングになっているので、歌詞としてのメッセージ性はほとんど有していません。
結局、残る日本語フレーズの部分に、作品のテーマが集中する密度の濃い状態となっているわけで、「走る」「踊る」「今夜」みたいなキーワードだけが印象的な作品となっているのです。
アルバムテーマ曲の割には、あまり印象の残らない曲となってしまったのは、メッセージ性の強い歌詞が特徴である浜田省吾作品としては、極端に言って物足りなかったということなのかもしれません。
もう何も言わないよ
言えばこの町のことやみんなのことをきっと恋しく思うから
Woo Baby woo Sha la la la one more song.
Woo Baby woo one more dance.
We're dancin',dancin' on the mainstreet.
至上の愛を待ち焦がれ
Dancin' 街燈の下で 今夜二人踊るだけ
2番も同様の構成でフレーズが続きます。
ただし、「もう何も言わないよ 言えばこの町のことやみんなのことをきっと恋しく思うから」のようなフレーズには、さすがに浜田省吾らしい繊細な感情が表現されており、そういう意味では少しもったいないような気もしますね。
一方で、「街燈の下で踊るだけ」のように、リアリティとしてどうなんだろうかと思われる部分もあり、歌詞よりもサウンドを重視した作りになっているようです。
「栄光の時」とか「至上の愛」みたいな表現に、この曲にかける意気込みの片鱗のようなものがうかがえるのですが、浜田省吾がもっとも得意とする物語性を欠いているところに、この作品の評価が分かれてしまうのかもしれません。
ただし、こうした空想的な場面設定も、また浜田省吾らしいものであったことは確か。
勢いで走っているような、そんな時代の曲だったのかもしれませんね。
テーマは、浜田省吾定番の若すぎる恋の物語。
高校時代に恋に落ちた二人が、卒業してすぐに結婚。
しかし、現実生活は厳しく、仕事や暮らしに疲れた二人は喧嘩ばかりの毎日となり、家庭はやがて崩壊していくという、いつものパターンです。
いつもとちょっと違うのは、「砂の城」が崩壊していく崩壊の場面までは、きちんと描かれていないところでしょう。
あいつはハイスクールで一番タフでクール そしてワイルド
彼女が街角を歩けば 皆 振り返る まるでクイーン
二人恋に落ちて、誰もが憧れる キャンパスで最高のカップル
卒業式の後 ふたりは教会の鐘を鳴らしたのさ
ハネムーンはつかの間 仕事はきつく 生活はささやか
やがて喧嘩ばかり やつは家飛びだし 酔ったまま高速飛ばした
二人踊ったロックンロール 浜辺で囲んだファイヤーストーム
今夜あいつのために あの季節に乾杯
答えなどないのさ 悲しむことはない すべては移ろい消えてく
この曲で「すべては移ろい消えていく」という思想は、その後、失われることはありませんでした。
経済的に豊かとなった日本社会の中にあって、どうしようもない虚無感のようなものを感じていたということなのかもしれません。
実は、この作品の発表当時、非常に強い違和感を感じたのは、「浜辺で囲んだファイヤーストーム」というシチュエーションでした。
それまでの浜田省吾にはなかった、新しい青春像がこの曲の中では描かれていると感じられたわけです。
キャンプファイヤーなんて、浜田省吾的世界にはちょっと似合わないロケーションでしたからね。
作品中の「あの季節に乾杯」のフレーズは、学校を卒業して社会に出た人たちの多くが共感することのできるものではないかと思われます。
単純な話、学校を卒業して、社会の中に放り出されると、「あの頃は良かったなあ」と感じる瞬間が、誰しも一度や二度ならずあるもの。
そして、その表現方法が浜田省吾的には「あの季節に乾杯」となったのでしょう。
溜まり場だったバーガーショップ
今年も生意気なフレッシュメン
あの頃の俺たちと同じように騒いでいる
想い出のかけらを集めて あの浜辺で燃やそう
俺たちのために
この2番のフレーズも、学校を卒業したばかりの若者たちには共通認識としてある、普遍的な気持ちなのではないでしょうか。
現在の学生たちを眺めながら、無意識のうちに、そこに過去の自分自身を投影して、昔を懐かしんでいる。
そこでいう「昔」とは決して「昔々」の話ではなく、ほんの数年前のことなのだけれど、学生から社会人へと大きく環境の変わった若者たちにとっては、この数年間がおそろしく長い時間の経過であり、学生時代の思い出は遙か昔の記憶に等しいものとなっているわけです。
当時トレンディドラマと呼ばれていた「愛という名のもとに」は、学生から社会人へと変化していく若者たちの心情を描いた青春ドラマでしたが、このドラマの中で、仲間たちが肩を組みながら、「想い出のファイヤーストーム」を歌っているシーンがありましたが、深読みしていくと、学生から社会人へと成長していく時間の中で揺れ動く、若者たちの不安を象徴するシーンだったのかもしれません。
答えなどないのさ 悲しむことはない すべては移ろい消えてく
社会に出たばかりの若者が、まるで悟りを得たかのようなフレーズを呟いている。
そこに、大人になれそうでなりきれない世代の矛盾が潜んでいるのかもしれませんね。
教室じゃ天使 キャンパスじゃ天使テーマの「金持ちの男の女」は、実は比較的浜田省吾作品の中では普遍的なテーマとも言えるものでもあり、金も名誉もない青年が、純粋に一人の女性に憧れているといった構図は、どらちかと言えば浜田省吾的なものとさえ言えるほどです。
でも街では She's a rich man's girl.
"Money is money" 君の口癖 「愛などあてにならない」
She's a rich man's girl.
You're a pretender 望みはすべて
Never surrender 手に入れても
Don't you remember 寂しいのはなぜ
Tokyo city lights 夜にはぐれないように
Tokyo city lights 祈るよ Good luck.
タフなハートと息を飲むほどの美しさ主人公の現代性は、2番のサビ部分のフレーズで、一層明らかとなります。
I'm crazy for you.
夜の街へ出て行く君を止められない
I'v been cry'in for you.
Too many hands 冷たい腕に
Too many chains 抱かれた後の
Too much pain ため息はなぜ
Tokyo city lights 君を買い占めたいよ
Tokyo city lights いくらだい How much is your love?
砂浜で戯れてる焼けた肌の女の子たち
おれは修理車を工場へ運んで渋滞の中
テレビじゃこの国 豊かだと悩んでる
でもおれの暮らしは何も変わらない
今日も Hard rain is fallin'
心に Hard rain is fallin'
意味もなく年老いていく
報われず 裏切られ
何一つ誇りを持てないまま
八月になるたびに「広島-ヒロシマ」の名のもとに
平和を唱える この国アジアに何を償ってきた
おれたちが組み立てた車がアジアの
どこかの街かどで焼かれるニュースを見た
あの主人公は、ほとんどの人のイメージでは、若い整備士のようなイメージでしょうけど、違うんですよ、俺のなかでは親父と同じぐらい年老いた整備士なんですよ。
それで、自分たちが戦後がむしゃらに働いてやってきたことは、なんだったんだろうというものなんです。
満たされぬ思い この からまわりの怒り
八月の朝はひどく悲しすぎる
No winner,No loser
ゴールなき戦いに疲れて あきらめて やがて痛みも麻痺して
Mad love,Desire
狂気が発火する 暑さのせいさ 暑さのせいさ
1982年に浜田省吾が発表した作品、「僕と彼女と週末に」。
既に30年近く前の古い曲ですが、今くらい、この曲の本当の意味が理解できる瞬間は、これまでの日本にはなかったかもしれません。
売れるものならどんなものでも売る
それを支える欲望
恐れを知らぬ自惚れた人は
宇宙の力を悪魔に変えた
当時は核戦争が「悪魔」だったはずなのに、本当の「悪魔」は我々の生活の中にこそ棲みついていたということなのでしょうか。
原子力発電がここまで暴走して、日本を国家的危機にまで追い詰めるとは、もちろん、誰にも想像だにできなかったことなのでしょう。
いつか子どもたちに この時代を伝えたい
どんなふうに人が希望を継いできたか
いつか子どもたちに伝えることのできる新しい希望を、今、僕たちは自分たちの手で作っていかなければなりません。
どんなに大変な困難も、日本はずっと乗り越えてきたのだということを、未来の子どもたちの誇りとすることができるよう、今、僕たちは何としてもこの危機を乗り越えなければなりません。
ひとりひとりができる身近な力で、日本はやっぱりこの危機を乗り越えることができると、僕は信じたいのです。
ワイパーも歪む程の雨
青ざめた光の闇に迷い込んで
スピンした車体が 中央分離帯のガードレールかすめてゆく
まるでスローモーション 動かない心
こんな夜には逢いたい 君に抱かれ眠りたい
どんな未来も受け入れる 君がそこにいれば
モノクロームの虹のような夢に傷つき 壊れた心を見てきた
再生と死を繰り返し転がるよ 終りが辿り着くところへ
解放への幻想 胸に抱いて
もう風の声も 世界が軋む音も
刹那の河深くに沈めて 今日を生きる