浜田省吾1996年発表のアルバム「青空の扉」収録曲です。
アルバムの最後に入る曲は重要な曲であるという解釈通りに、アルバム・タイトル曲とも言える曲でしょう。
前作「その永遠の一秒」で、地獄の底に叩き落とされるような苦悩を吐き出してから3年、浜田省吾は本来のポップ・ミュージックの原点に戻ったような作品をまとめ、このアルバムを発表したのでした。
全体に明るく、元気が沸くような曲が並んでいますが、最後のこの曲には重く悲しいテーマを感じます。
僕がこの曲を初めて聴いて感じたものは「無力感への切なさ」でした。
もう 無邪気な恋に落ちるには 二人若くない
何度かつまづき
愛の始まりも終わりも知りすぎているから
"君が欲しい"と言い出せないでいるよ
Cry over you.
夕暮れの砂浜を歩く
二人の足跡も満ち潮に消されて見えない
いつか恋の魔法がとける日が来るとしても
引き返すには遅く"I'm fallin' for you."
まず一番の歌詞です。
この歌の主人公は「もう若くない」男性であり、ある程度の人生経験を積んできています。
「愛の始まりも終わりも知っているから」、好きな女性がいたとしても「君が欲しい」とは言い出せないでいます。
つまり、人を好きになった時点で、もう愛の終わりを感じていて、だからスタートを切ることさえできないでいるわけです。
浜田省吾は若い頃に「恋などゲームさ」と歌っていますが、あれから年齢を重ね、大人になった少年は「ゲーム」の始まる前から「ゲーム」の結末を読み取り、そのために「ゲーム」に参加することさえためらうようになってしまっているのです。
「いつか恋の魔法がとける日が来るとしても」には、『恋は魔法さ』で歌っていた頃の恋や未来への前向きな姿勢は感じられません。
「恋の魔法」にかかる前から、「恋の魔法」がいつか解けてしまうものであることを知っているのです。
そして、そんな「ゲーム」の結末を知りつつも、主人公は「引き返すには遅く」彼女に惹かれていってしまうのです。
おそらく、主人公の男性は中年であり、いくつかの恋か結婚生活を経験してきていることでしょう。
あるいは結婚がうまくいかずに離婚したこともあるかもしれません。
歌の中には若さを感じさせるものが何もなく、あえて主人公の年齢を強調させるようなフレーズが並んでいます。
これが果たして計算なのか、中年との域に達した作者の心中だったのか、それは謎です。
もう夢見てたような未来が来るとは思えない 悲しいけれど
そっと時計の針を 二人出逢った夜に
止めてしまおう 永遠の一秒前に
Cry over you.
もう一人で生きてゆく強さ失うことを恐れず
君の広げた腕の中に飛び込む
いつか二人 別々の道を歩き始めても
引き返すには遅く"I'm fallin' for you."
続いて2番。
僕のもっとも恐れていたフレーズは、「もう夢見てたような未来が来るとは思えない 悲しいけれど」でした。
少年時代から浜田省吾の歌の世界の力強さに導かれて大人になった僕にとって、浜田省吾がこういうフレーズをいつか歌うだろうということは想像できないことではありませんでした。
けれども、実際にこのフレーズを聴いたときはめちゃくちゃショックでした。
あるいはこのフレーズは中年になった男の単なるセンチメンタルかもしれません。
けれども、それでも僕は浜田省吾にはこういうセリフを言ってほしくはなかったですね。
かつて矢沢永吉が、ソロデビューアルバムの中で、「ジェームス・ポンドは そう髪の毛が禿げるまでも 長生きなんてサマにはならねえぜ」と老いることを真っ向から否定しましたが、その矢沢も未だに現役で活躍中です。
しかも、彼は未だにこの曲を未だに歌い続けています。
また、あのローリング・ストーンズの活躍が未だに伝えられるなど、夢見ることの権利は年を取っても奪われないはず。
けれども、浜田省吾はわざわざ「もう夢見てたような未来が来るとは思えない」と、その夢の放棄を宣言しています。
もちろん、彼がそうしたフレーズをこの歌に込めるにはそれだけの理由があったことでしょう。
時計の針を「永遠の一秒前に」止めてしまおうは、かなり意味深なフレーズです。
もちろん、「永遠の一秒前に」は、前作「その永遠の一秒」を示唆するものであることは間違いありません。
時計の針を止めたいということは、作者自身「その永遠の一秒」という作品に対して、かなりの思い入れがあったものと思えます。
「二人出逢った夜」の前に時計を止めたいという構成は、ラブソングとしての体裁を支えていますが、ラブソングという貝殻を取ると、そこには当時の浜田省吾が抱えていた内面的な問題が現れるような気がするのです。
「もう一人で生きてゆく強さ失うことを恐れず」には、それまでの主人公が「一人で生きる強さ」を失うことを恐れていたと吐露していることを意味しています。
「一人で生きる強さ」とはなんでしょうか。
「その永遠の一秒」が発表された時期、浜田省吾は人間として、あるいはミュージシャンとして大きな壁にぶつかっていたと想像されます。
おそらくその中で感じたものが「一人で生きる強さ」だったのではないでしょうか。
ヒットチャートで1位を取り、社会のリーダー的な烙印を押された人間だけが感じる「孤独」、そしてその「孤独」の中で自らに与えられた「試練」。
いろいろな重圧の中で、彼は「一人で生きる強さ」を求めていたのかもしれません。
もちろん、人間はなかなか一人で生きてゆくことは難しいもの。
家族や恋人や友達や仲間や、いろいろな人たちの存在の中で生きてこその人生でしょう。
おそらくそうした様々なものを受け止めて、主人公は「君の広げた腕の中に」飛び込んだのかもしれません。
もちろん、誰かに頼ってしまうことで「一人で生きる強さ」を失ってしまうことを知りながら。
とはいっても、彼は「いつか二人 別々の道を歩き始めても」と、やはり恋の結末を予想しながら、彼女との新しい恋に落ちようとしています。
きっと、これが年齢を重ねた大人の恋愛なのかもしれませんね。
Cry over you.
真夜中に目覚めても 君の温もり傍に感じる
生きてくことが こんなにもたやすい
たとえ君を失っても 一人さまようとしても
引き返すには遅く"I'm fallin' for you."
「生きてくことが こんなにもたやすい」というフレーズに、主人公がそれまで生きることにどれだけ苦悩してきたかを感じさせます。
もちろん、生きてゆくことは決して「たやすい」ものではないでしょう。
けれども、それまでの主人公の価値観にとって、隣で愛する人が眠っている生き方には、生きることの「たやすさ」を感じさせる安らぎがあったのです。
最後まで彼は「たとえ君を失っても 一人さまようとしても」とペシミズムに包まれた恋愛の姿勢を崩そうとはしていません。
中年になってからの恋愛が、本当にそれほど臆病になってしまうものなのか、僕にはまだ分かりません。
いつかそれが分かる日が来るのかどうかも不明です。
けれども、この歌には、歌への共感とかそういう感情ではない、世代的な「無気力感」を与える何かがあります。
「もうお前の時代は終わったんだぜ」というメッセージ。
「もう俺の時代は終わったことを知っているけれど、それでもいいじゃないか」という開き直り。
若い時代の無謀なほどの勢いではなく、流れに身を任せて生きることの切なさ。
そうしたものが、この歌からは感じられるのです。
サウンド的には、かなりレベルの高いラブソングに仕上がっていて、これがシリアスなテーマを歌っているとは感じさせないところはさすが。
これでサウンドまで重かったら、シャレにならないというやつです(笑)
初めてこの曲を聴いてから10年、僕も若い頃の夢を諦めなければならない年代になっています。
けれども、現在も僕が聴きたいのは、未来への希望を抱えて、ガムシャラに走り続けていた若かった頃の浜田省吾の音楽。
中途半端に大人になるよりも、いつまでも少年のままでいたいと思うのは、これも年を取ったということなのでしょうか(笑)
さて、タイトルの「青空のゆくえ」ですが、「青空」とはなんでしょうか。
それは、きっと幸せな今の主人公の精神状態です。
どしゃ降りの雨や重たい雲がきれいに取り除かれた青空。
それまでの苦悩が嘘のように晴れた状態を、作者はきっと「青空」という言葉で表現したのでしょう。
もちろん、「青空」は決して永遠のものではありません。
曇りの日もあれば、雨の日もある。
それが世の中というもの。
言い換えれば、それが人生というものですよね。
この爽やかな「青空」も、いつかきっと曇る日が来るだろう。
あるいは嵐の日だってやってくるかもしれません。
けれども、かつてクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルが歌ったように「降り止まない雨を見たことがあるかい?」、空は必ず晴れるんですよね。
年を取ってしまったから、作者は「青空」がいつか変わってしまうことを知っているし、諦めてもいます。
けれども、その失われた青空が、やがてまた戻るであろうことも作者は分かっているのです。
現在の「青空」は主人公の幸せな瞬間。
そして、この「青空」がこの後、どうなっていくのか、その「青空のゆくえ」こそがこの歌のテーマとなっているのです。