浜田省吾1990年発表のアルバム「誰がために鐘は鳴る」収録曲です。
社会派ロックシンガーとしての浜田省吾を感じさせるメッセージ・ロックンロールで、流れとしては「MONEY」「J.BOY」「FATHER'S SON」と続く壮大な作品に仕上がっています。
銀行と土地ブローカーに生涯を捧げるような
悪夢のようなこの国の
飽食とエゴに満ちた豊かさの裏側で
痩せ細る南の大地
未来へのシュミレーション
破滅を示す時
鐘が鳴ってる 約束の地に
打ち上げられた罪を知る者に
鐘が鳴ってる 聖者のように
魂の声を聞く者に
闇を裂いて閃いてる
やがて1999年
この曲が発表された1990年という時代は、日本がバブル景気の絶頂にあって、束の間の幸福を体感している時でした。
1986年の「J.BOY」において「頼りなく豊かなこの国」と表現された豊かさは、「銀行と土地ブローカーに生涯を捧げるような、悪夢のようなこの国」と変化しています。
実際、バブルの絶頂期には、異常な地価上昇を筆頭とした不思議な経済状況が指摘されるようになっていました。
異常だということを感じながらも踊り続けた、それがバブル景気だったとも言えるくらいです。
この曲は、そうした異常な好景気に沸き上がる世紀末の日本を舞台として描かれています。
一方で、「飽食とエゴに満ちた豊かさの裏側で、痩せ細る南の大地」とグローバルな視点から、日本の異常な好景気の裏側に存在する貧困国家の存在を浮き上がらせる手法は、浜田省吾が常に意識してきたものです。
国内ではバブル景気という怪物に取り憑かれ、国外では国家間格差が拡大する一方であるという社会的な現実が、前半部分では提示されていると考えて良いでしょう。
そして、突然「鐘が鳴ってる」という宗教的なフレーズが入り、その鐘が世紀末を迎えた世界に対する神からの「警鐘」であることを示唆します。
「約束の地」や「聖者」などといった言葉が、この曲の宗教性を一層強め、「黙示録」の存在を暗に意識させるような構造を見せているのかもしれません。
もっとも、この曲の宗教性がキリスト教に基づくものであるということは、浜田省吾のアメリカに対する強い憧れを反映している部分でもあるような気がします。
もう少し言えば、昭和20年のアメリカ軍による占領政策以降、日本はアメリカの強い文化的影響を受けた経緯があり、その中でキリスト教は「スマートな文化」「かっこいい文化」というイメージを強く持つようになっており、そうした日本人としての宗教観があってこそ、この曲が理解できるのではないでしょうか。
逆に言うと、キリスト教的宗教観の薄い世界において、この曲は存在しにくいような気がします。
それは、浜田省吾が憧れたロックンロールという音楽がアメリカで生まれた音楽であるということと表裏一体であり、アメリカという存在をなくしては浜田省吾の音楽は語られないということなのでしょう。
1998年になって、浜田省吾はこの曲をリメイクしてシングル発表します。
それは、この作品に対する作者の強い執着心を感じさせます。
そこには、「銀行と土地ブローカーに生涯を捧げるような」人々の姿は既にありません。
けれども、「失われた90年代」の中にあって、なお裕福な社会を維持し続ける日本の姿は、相変わらず第3世界の中に潜む悲愴な貧困を浮かび上がらせていました。
新世紀を迎えようとする日本にあって、浜田省吾はなおアジアやアフリカといった地域の現実を憂い続けていたのかもしれません。
時代は変わり、第3世界の貧困問題と同様に台頭してきたイスラム圏の存在が、国際社会をなお憂鬱なものへと変化させ続けています。
僕が気になるのは、イスラム圏の人々に対しても、アメリカで生まれたロックンロールの鐘は鳴っているのだろうかということなのです。