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浜田省吾を聴いてみたい方に
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モノクロームの虹
浜田省吾2001年発表のアルバム「SAVE OUR SHIP」収録曲です。
というよりも、1998年に発表されたシングル曲が、2001年になってアルバム収録されたと言った方が正確かもしれません。
1990年代後半に発表されたシングル曲としては、多分一番好きな曲だと思います。
というのも、1990年代後期というのは、1980年代から1990年代にかけての成功を得た浜田省吾が、深い泥沼にはまったかのように迷走していた時期であり、個人的にも自分の波長と浜省の波長がなかなか一致しなかった時期でもあるのです。
それだけに、この「モノクロームの虹」を聴いたときには、懐かしい浜田省吾に久しぶりに逢えたなーと、しみじみと感じたものでした。
と言って、なにかメッセージが伝わってくるという曲でもなくて、とにかくマイナーコードのハードなビートに、浜田省吾らしさを感じていたに過ぎないのですが、「東京」「愛の世代の前に」「オン・ザ・ロード」「マイ・ホーム・タウン」などといった一連の作品と同じ匂いがしていたことには間違いありません。
特に、イントロのギターフレーズは近年の作品の中でも秀逸なアレンジだったと思います。
ワイパーも歪む程の雨
青ざめた光の闇に迷い込んで
スピンした車体が 中央分離帯のガードレールかすめてゆく
まるでスローモーション 動かない心
こんな夜には逢いたい 君に抱かれ眠りたい
どんな未来も受け入れる 君がそこにいれば

一般的に、メッセージ・ソングを歌うとされている浜省の作品から、うまくメッセージを読みとれないというのは、かなり珍しいことです。
(僕と浜省の波長が一致しなかっただけなのかもしれませんが)
メロディやフレーズはガンガン頭の中に飛び込んでくるのに、いったい何を歌いたいのかが、なかなかうまく伝わってきませんでした。
もちろん、こうして歌詞カードを見て、歌詞を読めば、作品の意図というのは大体つかめるものです。
けれども、ロック・ミュージックである以上、音楽の中から何かが伝わってこなければ、歌詞カードの中のメッセージは、あまり意味のあるものではないと思えるのです。
(実際、多くの浜省の作品からは、音楽を通してメッセージが伝わってきた)
そもそも、僕はほとんど歌詞カードを見ないタイプのリスナーなので、それだけに音楽から伝わってくる感覚みたいなものを重視してしまうのかもしれません。

歌のテーマは、「孤独」です。
全体的にラブ・ソングとして作られているのですが、そのラブ・ソングの根底には「孤独からの逃避」があると考えるべきでしょう。
前半の、雨の中でスピンして衝突事故を起こしそうになるという描写は、主人公の心理描写であり、パニックに近い戸惑いや焦りが伝わってきます。
「こんな夜」というのは、雨の夜とか交通事故を起こしそうになる夜という意味ではなく、もちろん、孤独感に責め立てられるような寂しい夜という意味でしょう。
「君に逢いたい」は、単純に愛情を示すだけではなく、強い逃避感情であると推測されます。
それは、次の「君に抱かれ眠りたい」というフレーズからも分かりますが、「君を抱きたい」ではなく、「君に抱かれたい」というのが、主人公の逼迫した感情を表しているものと思われます。
「どんな未来も受け入れる」は、かなり意味深な表現で、解釈の困難さを感じさせます。
「君がそばにいる」ことによって、いったいどんな未来が予測されるのか?
主人公の「覚悟」は、二人の関係にかなり危険な匂いを感じさせる効果を与えていると言えるでしょう。
モノクロームの虹のような夢に傷つき 壊れた心を見てきた
再生と死を繰り返し転がるよ 終りが辿り着くところへ
解放への幻想 胸に抱いて

もう風の声も 世界が軋む音も
刹那の河深くに沈めて 今日を生きる

2番以降の歌詞は、ますます観念的で哲学的な表現が多用され、いよいよ解釈を困難にしていきます(笑)
「モノクロームのような虹」とは何か?
文章中の別の言葉で表現しなさい。
そんな問題が出てきそうですね。
答えは「幻想」です。
もともと、浜田省吾は若い頃から「夢」にこだわりを持って歌ってきたミュージシャンでしたが、1990年代の中期以降、「夢」に対して懐疑的な姿勢が目立つようになります。
それは、作者自身の加齢による影響ということも否定できないかもしれません。
かつての「夢」が「幻想」となり、それは「モノクロームのような虹」だと表現される。
夢と挫折を繰り返すような生き方は、まるで「再生と死を繰り返しながら転がっているみたいだ」と、作者は感じたのでしょう。
そして、その先には「終りが辿り着くところ」が待っているのだと、作者は客観視しています。
それは、1番の中で、パニック状態にあった人物と同一人物の思考とは思えないほど冷静であり、あるいは焦りが飽和して虚脱状態の中にいるかのような静けささえ感じさせます。
「風の声」と「世界が軋む音」とは、何を意味するものでしょうか。
それは、虚脱状態の中にあった主人公が感じた、「すべて」なのでしょう。
あるいは、我々はこの歌をもっと政治的・社会的にとらえて解釈することもできるかもしれません。
これは、個人としての歌なのではなく、国家としての歌なのだと。
けれども、僕はやはりこの歌を、個人としての歌として考えたいと思います。
そこに、社会的な暗喩(あるいはダブル・ミーニング)が秘められていたとしても、この歌が持つ「孤独」への恐怖感は決して失われるものではないと思えるからです。
あたかも悟りを得たかのように、主人公は「今日を生きる」ことを決意します。
それは、自動車をぶっ飛ばしていた導入部分から、冷静に「モノクロームの虹」を見つめる部分を通して、最終部分の「今日を生きる」へと繋がっていく、一連のドラマのように構成されているのです。

全体を通して考えてみると、やはりこの作品は音楽的にも、そして文学的にも優れたセンスを感じさせる素晴らしい作品のひとつだと思われます。
ただし、表現力が困難になっている分だけ、ロック・ミュージックとしては伝えられるべきメッセージが少し薄まってしまったような気がします。
メッセージを全面に押し出すことができるフォーク・ミュージックとの違いが、そこにはあるのかもしれません。

でも、浜省がこういう作品を「まだ」作れるんだと思ったときには、本当に嬉しかったですねー。
また、こういう作品に出会うことができたらいいなー☆

| 全曲レビュー(24-SAVE OUR SHIP) | 22:54 | - | trackbacks(5) |
浜田省吾はアイドルなのか?
僕がもっとも浜田省吾の音楽を聴いていた1980年代と現在との間で大きく違うこと、そのひとつに浜田省吾の人気性というものがあるように思います。
どういうことかというと、80年代の浜田省吾はひとりのストリート・ロックンローラーとしてのイメージが強くて、会場には男性ファンが多かった。
もちろん、女性ファンだって多かったのですが、会場における存在感ということでは男の子たちの方が強かったような気がします。
マニアックなファンといえば、レイバンのサングラスをかけてライブ会場にやって来たり、「ON THE ROAD」の文字が入ったジャンパーを着てきたりするくらいのものでした。
気が付くと、現在の浜田省吾というのは、非常にアイドル芸能人に近いスタンスにいるような気がします。
時々、本当にどきっとするくらい、違和感を感じてしまうことがあるのですが、浜田省吾がアイドル芸能人になろうがどうしようが、そういうのは別に関係ないわけで、音楽さえ良いと思えばいつまでも聴き続けられるだろうという気持ちはあります。
ただ、ライブ会場に行ってあんまり違和感を感じるようだと、やっぱり寂しいのは確かですけれどね。
浜省がアイドル化してしまって困るかもと思うのは、作品の内容にあまり重きが置かれなくなってしまうことかもしれません。
浜田省吾のクレジットがあれば、なんでもかんでも「名曲」とか「素晴らしい曲」とか「感情移入できる曲」になってしまって、作品を冷静に鑑賞することができなくなっては、音楽の楽しみがなくなってしまいますよね。
浜省だって天才ではないんだから、作品作りの苦悩もあるだろうし、プライベートな生活面での苦悩もあるはずで、そうしたものを作品の中でひとつひとつ読み取ることが、リスナーには求められているような気がします。
ミュージシャンはリスナーに作品を押し付けることはできないはずだし、リスナーはミュージシャンの作品を評価するためには、きちんと鑑賞することが求められているはずですから。
まー、難しいことはともかくとして、個人的にはあんまりアイドルになってほしくないなー。
アイドルになるんだったら、10代の少年達にとってのロックンロール・スターみたいな形でアイドルになってほしいと思う今日この頃です☆

| つぶやき(DEAR SHOGO!) | 01:10 | - | trackbacks(10) |
悪い夢
浜田省吾1979年発表のアルバム「マインド・スクリーン」収録曲です。
現在の浜田省吾の一種異様とも思えるマニアックな人気からは想像することができないほど、当時の浜省はどん底の時代でした。
作る歌作る歌が全然売れなくて、メロディは良いけれど歌詞がダメだなんて言われて、職業作詞家の人たちの歌詞に曲を付けていたのもこの頃のこと。
アルバムの中でも、自分の歌詞と他人が書いた歌詞が同居するという、ちょっと複雑な構成になっています。

この「若い夢」は、浜田省吾本人の作詞による作品で、当時の浜田省吾をもっとも良く表現している作品のひとつだと僕は思っています。

若い夢 追いかけて ひたすら駆けてきた
子どもの頃の貧しい日々 怒りをバネにして
偽りも裏切りもかけひきも飲みほし
遠くへ ただ遠くへと ここまで来たけど
坂道を振り向けば そこにいたはずの友も恋人も見えない
でももう今は引き返せない
まるで悪い夢を見ているみたいだけど

この頃の曲というのは、面倒くさい解説なしで、ストレートに響いてくるメッセージ・ソングが多かったように思います。
「若い夢」というのは、もちろん、プロのミュージシャンになってブレイクすること。
逆境をバネにしてここまで来たみたいな表現は、長渕剛の作品にも見られる傾向がありますが、当時のミュージック畑にはそうした生き方を作品に反映させるという手法が珍しくありませんでした。
主題は、坂道で振り返ってみると、そこには誰もいなかったという部分でしょう。
坂道は上り坂だったに違いありません。
プロになって成功してやろうと長い坂を上り始めて、いつまでも見えない坂の向こう側、ふと気が付いて振り返ったときには、一緒に坂を上り始めたはずの友達や恋人の姿がありません。
完全な孤独の中で迷い込んでいる作者が、そこにはいます。
けれど、作者はそこで諦めたり、坂道を戻ろうとは思いません。
まるで悪い夢みたいだけれど、もう引き返せないんだ、この坂道を上り続けるしかないんだという思いのままに、長い坂道を上り続けようとしています。
あるいは、それは、エネルギッシュな気持ちではなかったのかもしれません。
「どうしようもできない」という気持ちが支える惰性のようなものだったのかもしれません。
けれども、やはり大切だったのは、「彼が坂を上り続けた」ということだったような気がします。

飛び跳ねて落ちていく つかの間の刹那を
つなぎあわせ生きてきただけ 何ひとつ得られずに
僕はただ無駄な日々 過ごしてきたのか
もう一度やせた翼で 何処へ飛び立とう
黄昏に触り向けば 涙がこぼれちまう 一人 帰り道
でももう今は引き返せない
まるで悪い夢を見ているみたいだけど

2番に入っても、作者の苦悩は安らぐことがありません(笑)
「僕はただ無駄な日々 過ごしてきたのか」という自分への問いかけは、中原中也の「おまえは何をしてきたのだと 吹きくる風が私に云う」と同じように、人生の途中で人が持つ内省的なものだったのでしょう。
「もう一度やせた翼で何処へ飛び立とう」はかなり痛々しい表現です。
もう一度飛び立ちたいという気持ちはあるのに、何処へ飛び立てばいいのか分からない、それが当時の浜田省吾だったのです。

現在の浜田省吾を見ていると、そんな時代があったなんて嘘みたいですよね(笑)
でも、僕はこの当時の浜省の作品がとても好きだし、そこには実体験を伴わなければ書けないリアリティがあります。
現在のリスナーは、浜田省吾にそんなものを求めたりはしないかもしれませんが、僕にはやっぱりこうした苦悩があってこその浜田省吾なのです。
実際、自分の暮らしが苦しかった時代には、何度もこの曲を聴いたし、どこかでこの曲に救われ続けていたような気もします。
僕はあの時代を忘れようとは思わないし、浜省本人にもそうした悔しさを忘れてほしくはありませんね。

| 全曲レビュー(4-マインド・スクリーン) | 21:56 | - | trackbacks(1) |
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