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ひとりぼっちで窓に腰かけ ギター弾いてた
子どもの頃 寂しさだけが友達だったよ
でも今夜はあの娘とふたり 海までドライブ
DJお願い 聴かせておくれ
いかしたロックンロール 素敵なリズム&ブルース
走ることの他に この街 何ができる
踊ることの他に 今夜 何ができる
Woo Baby woo Sha la la la one more kiss.
Woo Baby woo one more chance.
We're goin' down,down by the mainstreet
栄光の時を待ちわびて
Goin' down 暗闇の中を 今夜二人走るだけ
「MONEY」や「DADDY'S TOWN」同様に、街を舞台に生きる少年としての立場からのメッセージが、ただ叩きつけられています。
ストーリー性もドラマ性も何もない、ただのメッセージ。
これは、浜田省吾作品としては、かなり稀な作品構成なのではないでしょうか。
短い歌詞の約半分を英語フレーズが占めていることも特徴で、その英語フレーズも大部分がハミングになっているので、歌詞としてのメッセージ性はほとんど有していません。
結局、残る日本語フレーズの部分に、作品のテーマが集中する密度の濃い状態となっているわけで、「走る」「踊る」「今夜」みたいなキーワードだけが印象的な作品となっているのです。
アルバムテーマ曲の割には、あまり印象の残らない曲となってしまったのは、メッセージ性の強い歌詞が特徴である浜田省吾作品としては、極端に言って物足りなかったということなのかもしれません。
もう何も言わないよ
言えばこの町のことやみんなのことをきっと恋しく思うから
Woo Baby woo Sha la la la one more song.
Woo Baby woo one more dance.
We're dancin',dancin' on the mainstreet.
至上の愛を待ち焦がれ
Dancin' 街燈の下で 今夜二人踊るだけ
2番も同様の構成でフレーズが続きます。
ただし、「もう何も言わないよ 言えばこの町のことやみんなのことをきっと恋しく思うから」のようなフレーズには、さすがに浜田省吾らしい繊細な感情が表現されており、そういう意味では少しもったいないような気もしますね。
一方で、「街燈の下で踊るだけ」のように、リアリティとしてどうなんだろうかと思われる部分もあり、歌詞よりもサウンドを重視した作りになっているようです。
「栄光の時」とか「至上の愛」みたいな表現に、この曲にかける意気込みの片鱗のようなものがうかがえるのですが、浜田省吾がもっとも得意とする物語性を欠いているところに、この作品の評価が分かれてしまうのかもしれません。
ただし、こうした空想的な場面設定も、また浜田省吾らしいものであったことは確か。
勢いで走っているような、そんな時代の曲だったのかもしれませんね。
浜田省吾1986年発表のアルバム「J.Boy」収録曲。
発表当時は、「ラストシーン」同様に切ない別れをホップに仕上げたナンバーとして、なかなか人気のある曲でした。
アルバムの代表曲ではないけれど、アルバムの構成を支えている大切な曲、といった印象があります。
テーマは、浜田省吾定番の若すぎる恋の物語。
高校時代に恋に落ちた二人が、卒業してすぐに結婚。
しかし、現実生活は厳しく、仕事や暮らしに疲れた二人は喧嘩ばかりの毎日となり、家庭はやがて崩壊していくという、いつものパターンです。
いつもとちょっと違うのは、「砂の城」が崩壊していく崩壊の場面までは、きちんと描かれていないところでしょう。
あいつはハイスクールで一番タフでクール そしてワイルド
彼女が街角を歩けば 皆 振り返る まるでクイーン
二人恋に落ちて、誰もが憧れる キャンパスで最高のカップル
卒業式の後 ふたりは教会の鐘を鳴らしたのさ
ハネムーンはつかの間 仕事はきつく 生活はささやか
やがて喧嘩ばかり やつは家飛びだし 酔ったまま高速飛ばした
二人踊ったロックンロール 浜辺で囲んだファイヤーストーム
今夜あいつのために あの季節に乾杯
答えなどないのさ 悲しむことはない すべては移ろい消えてく
この曲で「すべては移ろい消えていく」という思想は、その後、失われることはありませんでした。
経済的に豊かとなった日本社会の中にあって、どうしようもない虚無感のようなものを感じていたということなのかもしれません。
実は、この作品の発表当時、非常に強い違和感を感じたのは、「浜辺で囲んだファイヤーストーム」というシチュエーションでした。
それまでの浜田省吾にはなかった、新しい青春像がこの曲の中では描かれていると感じられたわけです。
キャンプファイヤーなんて、浜田省吾的世界にはちょっと似合わないロケーションでしたからね。
作品中の「あの季節に乾杯」のフレーズは、学校を卒業して社会に出た人たちの多くが共感することのできるものではないかと思われます。
単純な話、学校を卒業して、社会の中に放り出されると、「あの頃は良かったなあ」と感じる瞬間が、誰しも一度や二度ならずあるもの。
そして、その表現方法が浜田省吾的には「あの季節に乾杯」となったのでしょう。
溜まり場だったバーガーショップ
今年も生意気なフレッシュメン
あの頃の俺たちと同じように騒いでいる
想い出のかけらを集めて あの浜辺で燃やそう
俺たちのために
この2番のフレーズも、学校を卒業したばかりの若者たちには共通認識としてある、普遍的な気持ちなのではないでしょうか。
現在の学生たちを眺めながら、無意識のうちに、そこに過去の自分自身を投影して、昔を懐かしんでいる。
そこでいう「昔」とは決して「昔々」の話ではなく、ほんの数年前のことなのだけれど、学生から社会人へと大きく環境の変わった若者たちにとっては、この数年間がおそろしく長い時間の経過であり、学生時代の思い出は遙か昔の記憶に等しいものとなっているわけです。
当時トレンディドラマと呼ばれていた「愛という名のもとに」は、学生から社会人へと変化していく若者たちの心情を描いた青春ドラマでしたが、このドラマの中で、仲間たちが肩を組みながら、「想い出のファイヤーストーム」を歌っているシーンがありましたが、深読みしていくと、学生から社会人へと成長していく時間の中で揺れ動く、若者たちの不安を象徴するシーンだったのかもしれません。
答えなどないのさ 悲しむことはない すべては移ろい消えてく
社会に出たばかりの若者が、まるで悟りを得たかのようなフレーズを呟いている。
そこに、大人になれそうでなりきれない世代の矛盾が潜んでいるのかもしれませんね。